目次
はじめに
あなたは毎日の生活の中で、
「何かものたりない」
「何かが欠けている」
「満たされない」
などの「欠乏感」をもったことはありますか?
今回の記事では、そういった「欠乏感」を満たすために必要なことをご紹介したいと思います。
それでは、どうぞお楽しみください。
全人類が毎日欠かさずやっていること
「お父さん、おなかすいた」
朝、娘がそういって私のところに来ました。何気ない朝の言葉ですが、私に人生にとって大切なことを考察させるには十分すぎるくらいのきっかけになりました。
おなかがすいているから、何かを食べる。ごく当たり前に多くの現代人が行っている行為ですが、ここに私たちの行動を理解する大切な原理が隠れているように思うのです。
その他にも、ちょっと例を見てみましょう。
お金がないから、仕事をする。
恋人がいないから、恋人を探す。
自分自身が「かっこよくなりたい」「かわいくなりたい」「美しくなりたい」と思ってフィットネスなどの努力する。
勉強がわからないから、わかるように努力する。
身体が弱いので、がんばって健康になろうとする。
劣等感を感じるので、それを払拭するためにがんばる。
以上は、ほんの例にすぎませんが、私はこうしたさまざまな行動の例にある共通項を見出すのです。
それは、私たちの行動が「欠乏」を埋めることを目的としているということです。
そして、こうした「欠乏」を埋める行動原理は、個人レベルだけではなく、集団、人類レベルでも機能しているのではないかと思うのです。
他の動物と比べて生物学的に弱い存在なので集団を作る。
人類の蓄積してきた叡智を獲得するために、学校を作る。
会社をつくりたいが一人ではできないのでグループで会社を作る。
より大きな規模のプロジェクトを行うために、株式会社になる。
幕末において欧米列強の圧力に対抗できない幕府を倒して新しい政府を作ろうとする。
病気を克服するためにさまざまな研究と実践を展開し、新しい薬や治療法を発見する。
美術や音楽による美の追求。
などなど。
いずれも、さまざまな形の「欠乏」があり、それを埋めることで、個人として集団として国として成長してきた姿を読み取ることができます。
「欠乏」を埋める勇気
しかし、私はここであることに思い至りました。
それは、何らかの「欠乏」を感じたとき、それを埋める方向に働く人も確かにいるが(それが当然と思われているが)、実際は、それらの「欠乏」を埋めようとしない、あるいは、その「欠乏」に押しつぶされてしまっている人も実は多いのではないか、ということです。
たとえば、勉強に劣等感を感じた場合、確かにそれを努力して克服する人もいれば、その劣等感を抱えたまま克服しない(できない)人も確かにいます。
また、人間関係において、孤独に寂しさを抱えている場合、それに対して多くの友人を見つけていくことで克服する人がいる一方で、あるいは、孤独のまま生きていく人などもいます。
このように、「欠乏」を埋める人たちと、「欠乏」を埋めない人たちがいるわけですが、
こうした違いはどこからくるのでしょうか?
それを考えるためのまず第一のキーワードは「勇気」だと思います。
最近のアドラー心理学ブームの中で、「勇気」は人生を切り開くひとつのカギになっていると思われますが、私たちはどんな形の「欠乏」であれ、それを埋めるためには、勇気を必要とします。
さきほどの例でいえば、勉強の劣等感を克服しようとする場合、自分の苦手科目に取り組む際には、自己卑下する自分や怠けたい自分と向き合う勇気が必要です。
また、孤独を克服しようと、新しい友達に声をかける際も勇気を必要とすることは容易に想像がつくでしょう。
勇気をうながす励まし
しかし、実際にそうした勇気を持てる人ともてない人がいるのも事実であり、そこで、第二に、注目されるのが、「励まし」であると思います。
日本滞在時に見たNHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」では、日本ではじめてのウィスキーを作ろうとするマッサンが何度も何度も挫折しそうになりますが、奥さんのエリーさんの励ましによって、かれは勇気を振りおこし、さまざまな困難に立ち向かう勇気を発揮していきます。
子どものころ、「学習障害」と認定されたDrディマティーニも、母親の励ましにより、夢をあきらめずに学習を続けたという事例があります。
こうしたことを考えると、欠乏を埋めるためには「勇気」が必要で、「勇気」を発揮するためには「励まし」が必要であることが見えてきます。
しかし、実際に励ましても、勇気を持てずに、欠乏を埋めようとしない人もいっぱいいるのも事実です。
励ましと愛
そこで第三に、重要になってくるのが「愛」ではないかと思うのです。
さきほどのマッサンの奥さんのエリーにしても、Drディマティーニのお母さんにしても、その根底には愛があります。
だからこそ、マッサンもDrディマティーニも魂の底から沸き起こる勇気と行動力を発揮できたのだと思います。
私自身も、一時やる気を減退させていた日々の教育活動も、亡くなった父の愛によって、精力的に展開することができるようになりました。
だから、私は確信をもって、私たちが人生で体験するさまざまな「欠乏」を埋めるためには、愛に裏付けられたはげましを体験することが必要であるといえます。
わかりにくい愛
しかし、そういうと、「確かに、エリーさんやDrディマティーニのお母さんのように身近に愛ある励ましをしてくれる人がいればいいけど、私にはそんな存在はいない」という方もいらっしゃるでしょう。
でも、本当にそうでしょうか?
エリーさんやDrディマティーニのお母さんなどのわかりやすい形ではなくても、別の何らかの形であなたの欠乏を生めるために愛が存在しているのではないでしょうか?
それは、ひょっとしたら、上司の「いやがらせ」の中にある愛かもしれませんし、失恋体験の中にある愛かもしれませんし、大切な人やペットとの「永遠の別れ」の中にある愛かもしれませんし、病気や怪我の中にある愛かもしれません。
実は、たとえ、わかりにくい形でも、全く愛に見えなくても、実はその中に愛があることは間違いありません。
「すべては愛であり、それ以外は幻想(Love is all there is. All else is illusion.)」(Drディマティーニ)
なので、私たちは愛が見えていないだけなのです。
そして、真の愛が発見できれば、「欠乏」もまた幻想であったことがわかるのです。
「欠乏」はすでに愛で埋まっていた!?
いいかえれば、深遠な愛の体験をすれば異なった形で「欠乏」はすでに埋まっており、何も失われていなかったことに気がつくのです。
そして、実はすでに埋まっていた欠乏(=価値)を、さらに充実した形にしたり、別の形にするときに勇気が必要なわけですが、それも深遠な愛の体験によって行動が起こせるので、実現可能性がぐんと高まります。
私が非常にわかりにくい形の中にある愛を発見したのは、いわゆる「問題生徒」の言動の中でした。
彼が示した様々な「授業妨害」行動という欠乏の中に、私を人間として教師として成長させる愛を発見したのです。
私はそうした愛を発見する前は、日本で別れてきた教え子たち(「今後はお互いの成長をもたらすよきライバルになろう」といって別れた教え子たち)の喪失感でいっぱいでしたが、愛の発見により、実は、失っていた、別れたと思った教え子たちが、目の前の「問題生徒」として私に成長をもたらしてくれていたということがわかったのです。それ自体も愛でした。
そのおかげで、私は勇気を取り戻し、その後も少しずつですが、私が求める教育の形に近づいていっているように思うのです。
その後も、私は様々なわかりにくい形の中に様々な愛を発見していきました。
たとえば、
私に怒鳴り散らす様々な人たちの中に愛を発見しました。
親切にしても礼をいわない様々な人たちの中に愛を発見しました。
様々な人たちとの「喧嘩」の中にも無数の愛を発見しました。
中学校時代の「いじめっ子」の中にも愛を発見しました。
亡くなった方々の中に愛を発見しました。
私をふった多くの女性たちの中に愛を発見しました。
私の提案を拒絶した様々な人たちに愛を発見しました。
私に様々な圧力をかけてくる人たちに愛を発見しました。
私のものを盗んだ人たちに対して愛を発見してきました。
わかりにくくても、私たちの体験していることの中には
必ず愛が存在します。
それを発見したとき、心の中に勇気がわき、
欠乏はすでに埋まっていたことに気づき、
さらに、それを充実させたものにするための次の行動に
進むことができるのです。
「誰」が愛をもたらしているのか?
そして、さらに私はあることに思い至りました。
それはわかりやすい人からの愛であれ、わかりにくい形の愛であれ、それは人が意識的にもたらすことは困難であり、どうしてもその背後にある大きな意思のようなものが必要であるということ。
たとえば、自分に対して、どのような形であれ、愛をもたらす人と出会うということは、私たちがいくら望んでも、インターネットでリサーチしても、面と向かってお願いしても、なかなかできることではありません。
「おぎゃあ」とうまれて、様々な成長過程や、様々な体験や出会いと別れを繰り返して、その人と出会う確率というのは天文学的に小さなものだと思います。
そうした人と出会うこと自体が奇跡であり、その奇跡をもたらしたのは人知を超えた意思、ひいては深遠な愛ではないかと思うのです。
あきらめないで愛を見つけよう
もし、あなたが、人生の中で何らかの形で大きく深い「欠乏」を感じているとしたら、ぜひ、そこに愛を発見してみてください。
それは決してわかりやすい形ではないかもしれません。
でも、そこには、必ずあなたに固有な形でもたらされているユニークな愛が存在しています。
あきらめないで、
なげださないで、
ふてくされないで、
おそれないで、
ぜひ、勇気をもって愛を発見してください。
それがあなたの「欠乏」をうめる第一歩になります。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて、
野中恒宏