目次
はじめに
私たちが子どもとどのように向き合うか、ということは現代社会における人間の生き方を探求する上で、とても大切な示唆をなげかけるきっかけになります。それは、あなた自身の子どもであるかもしれませんし、人様の子どもであるかもしれませんし、また、自分の中にいる子どもかもしれません。
今回は、私の娘が、他の親に激怒された経験から学んだことをシェアさせていただきたいと思います。実際に、お子さんがいらっしゃる方も、いらっしゃらない方も何らかの参考になれば幸いです。
なぜ他の親から娘は激怒されたのか?
先日、娘の二つのダンスコンテストが終わりましたが、ちょっとした出来事がありました。
他の参加者の母親が娘を見て激怒したのです。
なぜだと思いますか?
娘が何か失礼なことをいった?
娘が何か失礼なことをした?
いいえ、そのどちらでもありません。娘は何もしゃべっていないし、していないのです。
では、なぜ怒ったのか?
それは私の娘のコスチュームが自分の娘のコスチュームと似ていたからです(その母親いわく「瓜二つ」)。
「えっ? それだけのことで怒るの?」
という声が聞こえてきそうですが、実際にその母親が激怒しました。
その母親の言い分によると、最初にそのデザインの衣装を作ったのは自分たちであると。そして、真似されて娘のパフォーマンスの価値が下がること、そういったことが許せないということでした。
しかし、実際は娘とその娘さんの衣装は色こそ同じ青ですが、その柄やデザインは違うものでした。同じ年齢でサイズも同じで、バレエのチュチュですから、もともと形は似ているわけです。それがこの母親には激怒の「原因」になったのです。
しかし、本音のところは違うと感じました。実際は、服が似ていたから怒ったのではなく、怒りたいから理由を探していたところ、似ている服が目に入ったというところではないでしょうか?
表面的には、似た洋服が眼に入った。だから、怒った、ということになりますが、人間の心理というのはそういう時系列的に成り立っているわけではなく、もっと奥の深層心理によって決るものなのです。
自己重要感を脅かされたとき
私の推察は以下のとおりです。
この母親も娘もダンスコンテストという優劣を競う緊張空間と緊張時間の中にいました。そんな環境では、いつも以上に人間の6つのニーズの一つである自己重要感が脅威にさらされます。すると、親は自分の娘の(ひいては自分の)自己重要感を高めるために、何かをしなければいけないということになります。
この環境下で共通にどの親もすることは、娘のダンスの準備を最大限に手伝うことです。
おそらくこの母親はそれだけでは娘の自己重要感の危機に対して十分な満足を得られなかったのでしょう。
そんなときに、娘の自己重要感を脅かすように思われる競争相手のダンサーである私の娘が目に入ったのです。しかも、私の娘は自分の娘と同じ青の衣装を着ている。
とすると、この母親としてはそれに対して何らかの意思表示をせざるをえなくなるわけです。この母親は自分の娘の前で怒りを表現したことで、自分の娘に対する愛情を示し、さらには自己重要感も満たすという恩恵を得たのでした。
多様な自己重要感の示し方
しかし、私たちの人生を冷静に見渡すと、実はもっともっと多様な形で、自己重要感を満たしたり、愛情を示す選択肢が存在していることがわかります。
親としてさらに多様な方法で子どもの自己重要感、ひいては子どもへの愛情を示して生きたいと思いました。
ちなみに、私達親子が受けた恩恵は、娘の中に外の批判に左右されないミッションの強さを再確認したことです。
娘はこうしたプレッシャーをはねのけ、見事総合優勝を果たしたのでした。
その母親の示した怒りの強さに負けないくらいの強い思いを娘はダンスに抱いていたのでした。それが娘の自己重要感の表明でした。
すべての子どもは大人を育てようとしている
私はつくづく思うのですが、子どもというのは、親をはじめとした大人に何か大切なことを教え続けているのではないかと思うのです。いってみれば、子どもというのは人生の、ひいては宇宙の代弁者であり、そのメッセージの根幹には愛があるのではないかと思うのです。
すなわち、宇宙というのは、それまでその人が愛することができなかったことを愛することができるようになるまで、何度でもそのことを様々な形で人生にもたらす性質があります。今回引用した親の場合は、どのようなことをこれまでの人生で愛せてこなかったのでしょうか? この親御さんとはもう会う機会がないでしょうから、推察するしかありませんが、今回の事実をふまえると以下のようなことではないかと思うのです。
子どもを真に愛することは自分を真に愛すること
たとえば、(1)他の子どもと同じであってはいけない、ひいては、他の子どもと違わなければならないという考え方、(2)競争で負けることは悪いことであるという思い、(3)人の真似をしてはいけないなどの固定観念があり、それらのことを愛することができるように今回の出来事がもたらされたのではないかと思うのです。これらの固定観念を溶かし、愛することができるようになるためには、現実の中にバランスを発見する必要があるでしょう。たとえば、(1)についていえば、他の子どもと同じ、あるいは似ていることのメリットを発見する。そして、自分がわが子が他者に似ているということを見出した瞬間に、誰がわが子の独自性を見出していたかを発見する必要があるでしょう。(2)については、競争で負けることのメリットをデメリットと同じだけ発見し、さらには、わが子が負けたと思った瞬間に、誰がわが子の中に勝ちを見出したか、ということを発見する必要もあるでしょう。(3)については、人の真似をすることのメリットをデメリットと同じだけ発見し、人と異なることのデメリットもメリットと同じだけ発見する必要があるでしょう。
これらのバランスの中身は人によってさまざまで、すべての人にあてはまる回答はないといえます。それは、一人ひとりが異なった価値観を生きていることから明白なことです。自分の人生をつぶさに振り返ってみて、そこに真のバランス、ひいては愛を発見するまで、こうした出来事は何度でも様々な形で続くでしょう。この母親は、自分の人生の中でも「他の人と同じではいけない」「競争で負けてはいけない」「人の真似をしてはいけない」ということを経験する出来事を何度も体験してきた可能性が高いと思います。しかし、真にバランスがとれたとき、そうした出来事がなくなるかもしれませんし、もし似たような出来事が起きてももう気にならなくなっているでしょう。そこに、親の成長があるわけです。
子どものミッションと親のミッション
一方、私の場合は今回の出来事から娘から何を教わったのか?
娘はステージに上がる前という最も緊張感でいっぱいのときに、怒鳴られたわけですから、相当、嫌な思いをしたことでしょう。しかし、そうしたことをものともせず、舞台で普段の練習の成果を100パーセント発揮し、自分らしく輝いたということは、私に大切な学びをもたらしました。
「パパは人がなんといっても、自分のミッションを全力で生きているの?」
というメッセージをもらったように思いました。私は昔から人の意見に左右されやすく、特に強い口調で言われるとぐらついてしまう傾向がありました。しかし、私たちが真に自分らしく生きようとしたら、その生き方が世間の常識や、社会通念に必ずしも合致するとは限らないわけです。歴史上の「偉人」と呼ばれる人の生き方を見ても、いわゆる世間の常識から外れた生き方をしています。学校からドロップアウトしたり、刑務所に入ったり、弾圧されたり、差別されたり、世間からつまはじきにされたり、様々な形で世間の常識からはずされた生き方をしています。もちろん、自分らしく生きるとすべての人が社会の価値観とぶつかるといっているのではありませんが、自分らしく生きるということは社会の価値観と必ずしも相容れない生き方をする可能性を増大させるといえます。
そもそも、一人の人間に対してすべての人が好きになったり賛同するということはありえません。宇宙は必ずバランスをもたらすので、一人の人間には支持者と反対者が同じだけ存在するのです。それは、ガンジーであれ、マザーテレサであれ、ダイアナ妃であれ、オバマ大統領であれ、同じことです。
しかし、ミッションを生きるということはそうした外の声に左右されずに、自らの魂の声に沿って生きるということであります。
「内なる声やビジョンが外側の意見よりもより深遠で、より明確で、より大きいものであれば、あなたはすでに自分の人生をマスターしている」(Dr Demartini)
“When the voice and the vision on the inside become more profound, clear and louder than the opinions on the outside, you‘ve mastered your life.” – Dr. Demartini
私も毎日自分のミッションを生きていますが、ミッションが見えなくなってしまうくらいの外側からのチャレンジを受けます。しかし、娘が示したように、外側からどんなに「きつい」形のチャレンジがあっても、それはミッションをあきらめなければいけないということではなく、より自分のミッションを輝かせるチャンスにもなりうるのです。もう一度、自分のミッションを堂々と生きようと思いました。
親の罪悪感は幻想
「確かにいいたいことはわかるけど、あなたが話していることは理想論じゃないの? もっと深刻なケースでも同じことがいえるの? たとえば、自分の子どもが生まれつき病気だったりした場合も、そこに愛を発見して成長できるっていうわけ?」
という声も予想されますので、そのことについてもふれてみたいと思います。
私はこれまで、生まれつきの病気をもった子どもをもつ親御さんたちと何度も接してきました。そして、そうした親御さんに共通するのが子どもに対する罪悪感でした。
実は、私は生まれつきアレルギー体質で、長い間じんましんをわずらってきました。ひどいときは全身にじんましんが出て、顔をみると別人になってしまうくらいひどいものでした。母はそのことで強い罪悪感を感じてきました。そして、そのため、様々な健康食をつくってくれたり、新鮮な肉や魚料理をつくってくれたり、油っこい料理を避けてくれたり、遠方の病院に連れて行ってくれたり、漢方薬を飲ませてくれたり、実に様々なことをしてくれました。それは母の愛の具体的な表現でした。母(もちろん父も)様々な形で愛を示してくれたのです。
私は一度も自分のアレルギー体質のことで親を責めたことはありません。それどころか、アレルギー体質でよかったとも思うくらいです。私は他の子どもが大好物のいわゆるジャンクフードを食べる食生活とは別の食生活を送ることになりました。子どもの時分は他の子どもたちを正直うらやましいと思った時期もありました。しかし、それは同時に、世間の生き方に左右されない自分独自の生き方をする一つの予行練習になっていたのだと思います。
世間では、テレビドラマやマスメディアなどを通じて、型にはまった愛の形が流布されています。しかし、愛の形は一つでなくていいはずです。愛の形は世間と違っていいはずです。アレルギー体質のおかげで、私も親も世間で流布されているのとは異なる形の様々な愛を体験できたのでした。私は親に心から感謝しています。
罪悪感とは、自分がしたこと(あるいはしなかったこと)について、圧倒的にネガティブな意味合いを見出しているときに生じる感情です。しかし、繰り返し申し上げているように、宇宙は例外なく全ての人や出来事にバランスをもたらしています。自分が罪悪感を感じていることに、同じだけメリットもあることを発見したとき、あなたの罪悪感は消え、愛と感謝の体験ができ、そこから世間のものさしでは計りきれない新たなステージへ子ども親も成長できるのです。
おわりに
子どもは、親が愛せていない側面を示してくれている側面があるそうです。親は子どもが示している様々なことに、喜怒哀楽を示しますが、特に親が受け入れられない、怒ってしまう、遠ざけようとしてしまうこと、つまり、愛せないことにはちょっと一歩踏みとどまって、耳を済ませたほうがいいかもしれません。
大人のほうからの一方的なものさしで切り捨てるのはもったいないと思います。親は子どもの成長を助けますが、実は子どもも親の成長を助けているのです。親も子も、自分のミッションを最大限に生きるためのメッセージを毎日送りあっているのです。
家庭は独自な形の愛を発見するための「成長道場」でもあるのです。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて、
野中恒宏