「ありのままの自分」を曇らせている正体はこれだった!:「ありのままの自分」がわからない人へ
はじめに
昨年は「アナと雪の女王」が大ヒットしました。ここオーストラリアでも、大ヒットし、日本語の授業中にみんなで「Let it go」を大合唱したのが昨日のことのようです。そこで一つキーワードになったのが、「ありのままの自分」でした。世界中の人たちが「ありのままの自分」を思う存分出して生きてみたい、でも、なかなかそれができない現実があるということが、この大ヒットの一つの要因かもしれません。
そこで、今回は、この「ありのままの自分」とは何か? そして、その「ありのままの自分」を曇らせ見えなくさせている要因は何かを掘り下げてみたいと思います。文字通り、「ありのままの自分」を生きたいと真剣に願っているあなたの何かの参考になれば感無量です。
「ありのままの自分」って何?
では、そもそも「ありのままの自分」って何なのでしょう? 世界中には色々な解釈をしている方がいますが、今回はDrディマティーニから学んだことをもとにして、私なりの解釈をまずはご紹介したいと思います。
まずいえるのは、「ありのままの自分」とは「痛み」を避けようとする動物的本能や、「快楽」のみを得ようとする動物的衝動とは異なるということです。私たちは日常生活の中で、様々な「痛み」から逃れようとします。身体的な「痛み」だけではなく、精神的な「痛み」、仕事上の「痛み」、お金にまつわる「痛み」、家族についての「痛み」、社交上の「痛み」など、人によって、私たちは実に様々な「痛み」から逃げようとしているといえます。
また、一方で、私たちの多くは「快楽」のみを得ようとする傾向もあります。たとえば、不幸なしの幸福、失敗なしの成功、拒絶なしの受容、破壊なしの創造、喪失なしの獲得、チャレンジなしのサポートなど、様々な形の「快楽」を得ようとします。
しかし、宇宙は例外なくつねに24時間365日、毎分毎秒、宇宙の隅々まで、ミクロからマクロのレベルまで、一つの例外もなしに、バランスをもたらしています。
「誰も宇宙の法則から逃れることはできない(No one can escape from the Universal Laws)」(Drディマティーニ)
したがって、「痛み」を避けて、「快楽」のみを得ることは幻想であり、不可能なのです。この「痛み」と「快楽」は常に両方もたらされているのです。
にもかかわらず、私たち現代人の多くはこうした「痛み」を避け「快楽」を求めるという「動物的性質(amimal nature)」を生きているのです。
でも、人間はこの「動物的性質」のみで現されるほど、単純な生物ではありません。古今東西の人類をつぶさに観察すれば、「痛み」を選んでむしろ立ち向かっていくことをしている人たち(例:スポーツ選手)も少なからず存在しますし、一方で、「快楽」に依存しない生き方をしている人(例:酒やタバコを一切しない人)も数多く存在します。
つまり、「快楽か痛みか」「幸福か不幸か」「成功か失敗か」「受容か拒絶か」「創造か破壊か」「獲得か喪失か」「サポートかチャレンジか」という多数の二元論の中にではなく、両者を統合したところに、一つの「ありのままの自分」、すなわち本当の自分がいると思うのです。
(注:ちなみに、ここで貫かれている法則は「一と多数の法則(The Law of One and Many)」と呼ばれる宇宙の根本法則です。万物は多数の側面をもってあらわれるが、その本質は一つであることを示した法則であり、一つの中に多数があり、多数の中に一つが存在することを示した法則でもあります)
「えっ、あなたがいう「ありのままの自分」って、厳しい修行僧のような人たちのこと? そんなことできる人なんているの?」
そんな声が聞こえてきそうですが、それは違うと思います。もし特定の人だけが「ありのままの自分」をもっていて、それ以外の人たちが「ありのままの自分」をもっていないとしたら、それは人間という存在を非常に表層のレベルでしか見ていないと思います。
人間は表層レベルでは、さきほどもふれたような多数の二元論の中で、一喜一憂したり、様々なポジティブあるいはネガティブな感情を多様に経験して生きている存在ですが、一方で、それらを統合した一つの高次の存在でもあります。
話が抽象的になってきましたが、ここでは、私たちの本質は「痛み」を避けて、「快楽」だけを得ようとする「動物的性質」の中にあるのではなく、そうした二元論を統合し超越した、いわば「天使的性質(angelic nature)」の中にあり、そのレベルではすべての中に愛を発見できるので、
「すべては道につながり、道をふさぐことはない(Everything is on the way, not in the way.)」(Drディマティーニ)
状態となり、自分の天才性を「大きなビジョン」の中でどんどん発展させながら、いかんなく自分のミッションを生きている姿を思い描いてくだされば、大丈夫です。それこそが、「ありのままの自分」であり、本当の自分なのです。
「ありのままの自分」を見えなくする7つの不安
「そんな、偉人でもあるまいし、そんな生き方できるはずがない」
そんな風に思われた方はいらっしゃるでしょうか? しかし、あなたといわゆる偉人というのは本当に違う存在なのでしょうか? あなたは本当の自分を見ないようにしているのではありませんか? あなたは本当の自分にうそをつき続けているのではありませんか? 実はあなたは、自分が自分らしく最大限に生きると、様々な「問題」が生じるのではないかという不安を抱えているので、それで自分の偉大さを見ないようにしているのではありませんか?
あなたも心の深いところにあるハートのレベルで自分にまっすぐ向き合ってみれば、そうした不安が、偉大なビジョンやパワーをもった本当の自分を見えなくしていることを実はご存知なのではないでしょうか?
いいかえれば、あなたのミッションを曇らせている不安は次の人生の7つの領域に根ざした不安です。
スピリチュアルな領域の不安(例:自分らしく思い切った行動をすると、自分が信じてきた宗教の教えに反するのではないか?)
仕事の領域の不安(例:自分らしい仕事をしようとすると、職を失うのではないか?)
知的活動の領域の不安(例:自分らしく最大限に生きたいけど、自分にはそれだけの高い学歴や能力がない)
お金の不安(例:自分の本当にやりたいことをやるお金がない、あるいは、無一文になってしまうのではないか?)
家庭、愛する人についての不安:(例:自分のやりたいことを思いっきりやると、愛する人を失ってしまうのではないか?)
身体、健康についての不安(例:自分にはそんな大きなことをするエネルギーはない)
社交についての不安(例:本当に自分のやりたいことをやると社会の中で孤立するのではないか?)
そもそも、不安というのは、将来起きるであろう体験の中身に圧倒的にネガティブな意味合いを見出しているために生じる感情です。しかし、さきほども述べたように、この宇宙で生じるすべてのことには必ず一つの例外もなくポジティブな内容とネガティブな内容が同じだけ含まれています。どんなにネガティブに見える未来の出来事であっても、そこには同じだけのポジティブなことも必ず含まれているので、実はそもそも不安を感じる必要はないのです。言い方をかえれば、不安は幻想を見ていることの心のフィードバックなのです。
「それじゃあ、死の不安はどうなんだ! 死は現実だぞ! 死んでしまったら何にもならないだろう?」
そういう意見に関しては、Drディマティーニから学んだことをもとに、次のようにお答えしたいと思います。
死の不安や恐怖を感じる一つの原因は、自分に対する見方が圧倒的にポジティブであり、いわば自分に溺愛している状態なので、その対極として自分を失う恐怖も同時に大きくなるということです。したがって、自分の溺愛している特徴がもつネガティブな側面を十分に発見できれば、自分に対する見方はニュートラルになり、以前より死に対する恐怖がやわらいだり、消えたりするようになります。
「そうはいっても、この世からいなくなるんだぜ。誰だって怖いよ! だったら、リスクを犯して自分の生きたいように生きるんじゃなくて、少しでも死の恐怖を先延ばしにすることのほうがいいんじゃないの?」
こういう考え方にも先程来触れている二元的な見方があります。すなわち、人間を表層的な「生か死か」という二項対立の中でとらえており、人間の心身を構成するエネルギーは決して消滅することはなく、形を変えて存在し続けるという「エネルギー保存の法則」の観点が欠けているといっていいでしょう。人間は、その一人の人間が生涯かけて行った様々な営みの結果生まれた、書き物、影響力、インパクト、サービス、思い出、子孫、仕事の成果、芸術作品、他者への貢献、記録など、多様な形で生き続けるのです(一と多数の法則)。また、その人がもっていた様々な特徴はあなたの中や他者の中に同じだけ発見することができます。つまり、根源的なレベルでは「人は死なない」のです。
私はこの真実を知ってから死への恐怖が全くなくなったわけではありませんが、かなり軽減されたと思っています。でも、誤解しないでいただきたいのは、別に死を推奨しているわけではないということです。「死を推奨する」という行為は、同時に「生を大事にしない」「生に恐怖を見出す」「生に意義を見出さない」、ここでも生と死を敵対させる二元論的なアンバランスな視点が存在しているからであり、そこにも真のありのままの自分はいません。
生と死の二元論を超越したところに、人間の本質を見出すことができるのです。言い方を変えると、私たち人間は、毎日のように様々な形で「生」と「死」を両方とも体験しながら存在しています。生は日常生活の中で毎日意識しやすいことなので、無数にその例を発見することができるでしょう。
しかし、死については、さきほどふれたわれわれ人間の「動物的性質」から無意識のうちに見ないようにしているので、あまりそれを実感できません。しかし、私たちの体内では、つねに細胞レベルの生と死のドラマが繰り広げられているし、人間の成長段階では、いわば「自分つくり」と「自分壊し」という形の生と死が存在しているし、人間関係においても、恋愛や失恋などの形で生と死を体験しているし、組織や集団レベルでも設立と解散という形で生と死がそこにはあるし、そもそも生と死は切り離すことができないものであり、このどちらかだけに焦点をおくことなどできないことなのです。そうではなく、私たちはこうした生と死を自らの内外に抱え込みながらも、それを統合し乗り越えていく存在なのです。
つまり、そうした生と死などの多様な二元論を統合・超越したところにこそ、一つのありのままの真の自分がいるのです(これも「一と多数の法則」)。古今東西の人類の歴史の中で、実に多くの人たちが二元論を克服したところで、世界でたった一人のユニークな人生を送ってきました(そうした人物の代表例が、自らの命の危険を知りながらも、新しい時代を迎えるために奔走した坂本龍馬ではないでしょうか? 彼の夢抱いた日本は今、様々な形で生き続けています) そうした真理がわからないと心の中に不安や恐怖がうまれ、結果的に、ありのままの真の自分が見えなくなってしまうのです。
相手との類似性と相違性が「ありのままの自分」を見えなくする
これまでは、人生の七つの領域の様々な不安(例:死の不安)がありのままの真の自分を見えなくする、ということを書いてきましたが、もう一つ、本当の自分を見えなくしている大きな原因があります。それは、他者と自分に極端に類似点を見出しているとき、そして、他者と自分に極端に相違点を見出しているときです。
別の言い方をすると、相手にぞっこんほれ込んでしまって、メロメロになっている状態と、逆に、相手に対して激しい怒りを感じている状態のときというのは、本当の自分が見えにくくなっているのです。人間は、相手にメロメロになっているときは、自分との類似点を強調する傾向にあり、一方で、相手に対して激しい憤りを感じているときは、自分との相違点を強調する傾向にあり、そういうときというのは、自分をありのままに見えていない状態なのです。
一つずつ見ていきましょう。
まず、相手にメロメロになっているときというのは、相手が好きなものを自分も好きになろうとしたりするなど多くの共通項を増幅させる状態でありますが、それは、相手を高い位置に置き、自分を低い位置において、自分の価値を相手の価値に従属させている状態でもあります。「あなたのためだったら、何でもする。あなたが死ねといったら死んでもいい」というような状態です。これは何も一部の特殊な人たちのことをいっているわけではなく、私たちが誰でも様々な形で経験したことのあるありふれた現象です。たとえば、アイドル歌手にに熱狂している状態、教祖様を崇拝している状態、寝ても覚めても異性のことを思っている状態などです。
私のメンターでもあるDrディマティーニも若かりし頃は例外なく、ほれた女性のために、自分の価値観の中にはない、料理やダンスをしたことがあるといっていました(笑)。このように、相手にメロメロになっている状態というのは、さきほどもふれた「快楽だけを求める動物的な状態」であり、自分を見失わせやすい状態なのです。
一方で、相手に大きな怒りを抱いているときというのは、同時に自己正当性をどんどん増幅させている状態であり、他者否定も増幅させている状態であり、お互いの相違点がどんどん大きくなってきます。そういうときというのは、自分を上に置き、相手を下に置く傾向にあります。そして、この上下関係を完結させるために、自らの価値観を脇において、衝動的な行動に走ったり、本能のままに行動するなど、ここでも「動物的性質」を示しており、本当の自分が見えなくなっています。
このように、相手にメロメロになって相似性に焦点を当てていても、相手に憤りを感じて相違点に焦点をあてていても、両者に共通しているのは、自他の分離です。しかし、本当のありのままの自分というのは、自他の二元論すら統合・超越します。
「自分の中に他のすべての人を発見したとき、あなたは本当の自分になる」(ショーペン・ハウアー)
この言葉はよくDrディマティーニが引用するものですが、一人の人間の中に多数を発見するという点が、先ほどからちょくちょく顔を出している「一と多数の法則」の観点と共通しています。すなわち、相手のことが大好きでも、大嫌いでも、相手の特徴はすべて自分の中にも独特な形でそなわっており、それにちゃんと気づくまでは、あなたは幻想をみていますよ、本当の自分は自分の中に相手を発見し、相手の中にも自分を発見できますよ、ということをいっているのです。
すなわち、
「見ている人、見られている人、そして、見ていることがすべて同じである(The seer, the seen and the seeing is the same)」(Drディマティーニ)
という状態の中にいる自分のことです。いいかえれば、見ている人も見られている人も、お互いに嫌いであっても好きであっても同じ特徴をもった人間であり、お互いに同じ愛を見ているということです。
しかし、忙しく騒々しい二元論に支配された日常社会においては、「見ている人」「見られている人」が分断されており、「見ていること」は、一つの愛ではなく、多様な二元論の形になりがちで、このような状態のときは、ありのままの自分が見えないのです。
私はこの分離を克服する力こそが愛であると確信をもっています。愛こそがあなたのありのままを取り戻させてくれるのです。
おわりに(まとめ)
人間は、「一と多数の法則」で示されているように、根本的には一つの存在(Being)であるが、現実には二元論の中で多数の側面をもった存在でもあること。
私たちはこの多数の二元論のどちらかを自分であるかのように思い込みがちであるが、実はその二元論を統合・超越したところにこそ、ありのままの真の自分がいるということ。
しかし、私たちは人生の7つの領域において様々な不安や恐怖を感じており、それが私たちのありのままの姿を見えなくさせている。
また、他者に対してメロメロになったり、一方で、激しい怒りを感じることも、私たちがありのままの本当の自分をみることを妨げている。
本当の自分は他者の中にも生きているし、他者は自分の中にも生きている。真の自分はワンネスの中にある。
不安を解消し、人々の分断を溶かし、真のありのままの自分を生きるためのエネルギーは愛である。
今回も読んでくださって、ありがとうございました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて。
野中恒宏