子育てに大きなプレッシャーを感じている親御さんへ:そんなに悩まなくてもいいんですよ
目次
はじめに
マスメディア、インターネットなど、様々な媒体が「子育て」の情報を大量に流しています。そして、その中で繰り返し繰り返し、「子どもの将来は親次第」という情報が刷り込まれています。
そんなプレッシャーの中、多くの親御さんが「完璧主義」の生き方を強いられ、心身ともにへとへとになっているようです。
言い方をかえると、心の中に無数の「しちゃいけない」「しなくちゃいけない」を抱えながら、日々多くの親御さんたちが子どもと真剣に向き合っているのだと思います。
私も幼い娘を育てる一人の親として、様々な形のプレッシャーと向き合い続けています。そこで、今回は、私たち親を初めとした大人たちが感じているプレッシャーの正体は何か? そして、どのように対処したらいいのかについて考察をすすめてみたいと思います。
プレッシャーの中核にあるもの
今日、多くの親御さんが抱えている子育てのプレッシャーの中核には二つの相反する不安があるように思います。
ひとつは、「他の子と同じでなければいけない」という不安。そして、もうひとつは、「他の子とは違う才能を伸ばさなければ」という不安です。前者の例としては、「他の子どもたちがお稽古ごとや塾に通っているのだから、うちのこもそうしなきゃ」「他の子どもたちが大学に進学するのだからうちの子どもも大学に進学しなくちゃ」などがその典型例でしょう。一方、後者の例としては、「うちの子には他の子にはない才能があるから、それを親が伸ばしてあげなければいけない(あるいは伸ばすチャンスを発見しなければいけない)」「うちの子は他の子どものようになってほしくない」などがその例でしょう。
前者は「他者と同じであるということが絶対にいい」という決め付けがあり、後者は「他の子よりも優れていなければいけない」という想いがその根底にあるように思われます。傾向として、前者は自分の子どもないしは、自分について、自尊心が低い場合や劣等感が強い場合に感じやすいことであり、後者は、自分の子どもないしは、自分について、自尊心が著しく高く優越感が強い場合に感じやすいことです。
冒頭でふれたように、様々な外側の媒体を通じて様々な子育てのプレッシャーに直面しているので、現代の親としては、こうしたいずれかのプレッシャーを感じることは避けられないことなのかもしれません。
もちろん、学校の勉強に遅れないように自分の子どものレベルをブラッシュアップすることや、自分の息子の独自性をどんどん伸ばそうとすること自体はまったく問題ないといっていいでしょう。しかし、今日の状況をみると、必要以上に大きく強いプレッシャーを抱えて、強迫観念のように、毎日「絶対に他の子どもと同じでなければいけない」「必ず子どもの才能を親が発見しそれを伸ばなければいけない」と極端に感じ続ける必要はないと思うのです。
なぜなら、こうした両極端な考え方には以下のような幻想が含まれているからです。
プレッシャーの中にある幻想
それでは、そうした子育てについてのプレッシャーに内在する幻想を考察してみましょう。
「他の子どもと同じでなければいけない」という幻想
まず、「他者と同じであることがいい」ということについては、他者と同じことは必ずしもいいとは限りません。たとえば、他者と同じであろうと自分を強制すると、自分のもつ独自性が発揮しにくくなったりします。本当に子どもがやりたいことが「他者と同じでなければいけない」という強い想いによって抑圧され、そのやりたいことや優れていることをやったり伸ばしたりすることが遅れたり、やりにくくなったりする可能性が高まるでしょう。
さらには、そうした子どもの最優先事項の中にある天才性を置き去りにすることで、子どもがいらいらしやすくなったり、落ち込みやすくなったり、食欲が落ちたり、対人関係に軋轢がうまれたりする可能性も増大するでしょう。
また、「他者と同じ」ということを考えても、私たち一人ひとりは異なった優先順位、異なったミッション、ひいては天才性をもって生きているので、本質的にはこの地球上に「他者と同じ」人は誰一人としていないのです。同じなのは誰でも異なった優先順位、ミッション、天才性をもっているという枠組みだけです。その中身は一人ひとりユニークで異なっているのです。
ひとつの社会の中にはある特定の強力な価値観が存在するので、その価値観にあっていないと大きな不安を感じやすくなり、自分の子どものもつ真の天才性が見えなくなってしまうわけです。たとえば、自分の子どもが学校の勉強が苦手で、ゲームばかりしていたり、スポーツばかりしているとしたら、多くの親たちはゲームやスポーツを抑圧してしまうのではないでしょうか? そして、ゲームやスポーツの中に潜んでいる天才性を見逃してしまうことになるのではないでしょうか?
別にここでは学校の勉強についていけなかったら、ゲームやスポーツをさせろということだけをいっているのではないので、その点は誤解のないよう。その子の本当に好きで天才性を発揮していることと学校の勉強を結びつけ学校の勉強を伸ばすという選択肢もあるので、その点もぜひ心の中にとどめておいてください。
「他の子どもたちよりも優れていなければいけない」という幻想
さ らに、「他の子より優れていなければいけない」ですが、ある一つの価値観に基づいて考えれば、たしかに、A君とB子さんの二人に優劣をつけて考えることは可能でしょ う。しかし、前の段落で書いたように、一人ひとりはユニークな優先順位とミッション、そして天才性をもつ存在なので、そもそもどちらが優秀でそうでないかなどは、その子のユニークな生き方のレベルでは決して比べられないのです。
だから、「他の子のよりも優れていない」と思ったとしても、その子には独自にすぐれたところが必ずどこかにあるのです。それが社会的な価値観や社会理想主義に合致していないと、不安になり、その独特な子どもの特徴を意識無意識を問わず抑圧してしまうことがあるのではないでしょうか?
「確かにそれはそうだけど、その独自に優れたところを発見できなかったり、伸ばせなかったらどうするの? かわいそうじゃない。だから、親は無理をしてでも、子どものために才能を発見して、それを伸ばさなければいけないのよ」
というご意見があるかもしれません。
確かに、親の協力によって、世の中には才能を伸ばし、大成功を収めている人は大勢います。しかし、子どもの成長や成功は親のサポートがなければありえない、というのは幻想です。親のサポートどころか、親から試練が与えられても、事実として多くの子どもたちは自分の才能を開花させ、充実した人生を送っています。したがって、親からの試練や親の不在が子どもの才能の開花をの芽をつむということは根源的なレベルではないのではないでしょうか? 一見、試練に見える親からの仕打ちもその根底では、その子がその子らしく最大限に生きることにつながっていくのです。
親の試練と子どもの成長
では、ここで親からの「試練」が子どもの才能を開花させた事例をご紹介しましょう。
たとえば、あの喜劇王チャップリンは、歌手だったお母さんが舞台の上で突然声が出なくなるアクシデントに見舞われたとき、その穴を埋めるために急遽舞台に上がり、即興で手足を想いっきり動かしたら、それが大うけしてその後も舞台にあがるようになりました。
また、親から命にかかわるような仕打ちを家庭内で毎日のようにされていた男の子が将来、その悪を憎む心を昇華させ、敏腕の検事として大成功を収めたという事例もあります。
さらには、親の死という最大級の試練を体験しても、それに負けずに自分の才能を開花させた人も大勢います。
つまり、親が何をしてもしなくても、子どもというのは自分の才能を開花できる存在なのです。その意味で、「子育てには間違いはない」のです。
「じゃあ、親は何もしなくてもいいのか? 『親はなくても子は育つ』ってことをいいたいのか?」
という意見が聞こえてきそうですが、たしかに、親は子どものためにできる限りのことはすべきであり、そのことには何の疑いもありません。ただ、必要以上に強迫観念を感じて、自分と子どもに毎日プレッシャーを与え続け、何が何でも「他の子と同じにならなければならない」あるいは、「他の子よりも優れていなければならない」と無理やり自分を駆り立てる必要もないということをいいたいのです。できることからやればいいのです。
子育てはどのような方向に転んでも、その子のミッションを展開する道にむすびつきます。それがサポートに見えようとと試練であろうと同じことです。根源的なレベルでは子育てには失敗はないからです。
映画「武士の家計簿」に学ぶ子育ての本質
最近、見た映画「武士の家計簿」は、「貧困」と呼ばれる状況から、ある親子が人間らしく、自分らしく生き、親子の絆を発見する物語でした。今日のヒートアップした子育てに、とても重要なメッセージを投げかけていますので、ご紹介させてください。
「鯛じゃ! 鯛じゃ!」
時は江戸時代。主人公は周囲から「そろばん侍」と揶揄される男が主人公です。彼は剣術はいまいちですが、そろばんの腕は天下一品で、職場や家庭のどんな小さな数学的なミスも見逃さず、それは彼の属する加賀藩の財政上のグレーな部分にも向けられたため、一時彼は自分の藩の中での立場も危うくしたほどでした。
やがて、彼は自分の家が代々大きな借金を抱えてきていることにも気がつくにいたり、彼はその家庭の財政難を打開するために、いらないものをどんどん捨てる大きな「断舎利」を決行するのです。
その結果、家庭の財政は少しずつ快方に向かいますが、家族は昼の弁当も粗末な葉っぱにおむすびを巻くだけの状態になります。
極めつけは、長男の祝いの席で通常は客に出すはずの鯛(たい)を買うことができず、その代わりに、鯛の絵を客に出してふるまったということです。
(絵:野中恒宏)
しかし、そこには一切悲壮感や落ち込んだ様子などはないのです。むしろ、鯛などは飾りであり、この独特な趣向をこらしたおかげで、実際に鯛を買うよりも豊かな充実した想いをもつことができたということでしょうか?
そもそも鯛を食べる目的は何でしょうか? 「普段と異なり、高くて貴重なものを買って祝ったという満足感」「めで『たい』から鯛で祝いたい」などが主な目的でしょう。つまり、「いつもと違う特別な気持ちでめでたいことを祝福したい」というのが、鯛を買う目的の根本でしょう。その意味で、この家族は他の家族が体験したこともない特別な方法でその場を祝うことができたわけで、この家族は形こそ違え、実際に買ったに匹敵する体験を味わえたといえるのではないでしょうか。
主人公が息子をおんぶしながら、その鯛が描かれた紙をもって「鯛じゃ! 鯛じゃ!」と大喜びする姿は、形にとらわれない真の心からの祝いを楽しんでいる深い親子の結びつきを描いた名シーンでした。実際に鯛を買う以上においしい豊かな気持ちになれたのかもしれません。
そろばんをもったサムライ
そんな中、この主人公は息子に徹底してそろばんを教えるようになります。
そのときの男の厳しさは剣術を教える厳しさに匹敵するものでした。まったくの妥協を許さず、どんな小さな間違いも、曲がったことも許しませんでした。
しかし、彼の息子は反発し、もっと自分は侍らしく生きたい、そろばんだけで人生を終わらせたくないと、侍になりたいという想いを父にぶつけて反発するようになります。
やがて、時は江戸時代から明治時代へと移っていきます。ある日、息子は自分の算術の腕を大村益次郎に高く評価されます。
「今のご時勢、刀をつかいこなす侍は五万といる。しかし、これからの時代は緻密な算術をこなし、兵を動かすことのできる技能をもった人間が必要になる。そうだ。これらかは君の力が必要だ。君の技能は1000、いや、万の兵に匹敵する」
そうです。彼は形をかえた立派な侍のリーダーとしての資質をいつの間にかもっていたのです。息子の侍になりたいという想いは、父の厳しいそろばんの指導によって、このようなユニークな形で実現したのです。父のそろばんの教えは、その本質は、剣術を学ぶのと同じ、いやそれ以上の内実をもっていたのです。
ここに時代や世代を超えた親の深い愛を感じました。
現代の親の多くは子どもに対して「ああしてほしい」「こうしてほしい」とその形にばかりこだわる傾向があり、その望む職業や学歴の形が得られないともうだめだというような強迫観念を抱いているようにも見えます。
しかし、子どもの夢というのは何もひとつの形で実現するものではありません。子どもの夢は様々な形やポテンシャルをもって実現するものなのです。
「宇宙では何も失われていない。ただ形を変えて存在している」(Drディマティーニ)
「武士の家計簿」はその真実に氣がつかせてくれる映画であり、今日の子育てに悩む多くの親御さんにひとつの光を投げかけているように思うのです。もちろん、子どもにある「形」を求めることは決して悪いことではありません(いいことでもありません)。心からある形を望むのであれば、それを目指していくことには何の問題もないでしょう。ただ、その望む形にならなくても、必要以上に責めたり、落ち込んだり、余計プレッシャーを感じることはないということを私はいいたいだけなのです。別の形でそれは実現しているのですから。
おわりに
私は親になって11年がたちましたが、はじめて娘の父になったときのあの感動は今でも昨日のことのように覚えています。この世界でたった一人の私を父と呼んでくれる存在の誕生、大きくなるまでは私たち親の全面的保護なしには生きられない存在。私はもともと自尊心がそれほど強い人間ではなかったので、全面的に頼られる存在になったことがうれしくてうれしくて、私は「この子のためだったら死んでもいい」と涙ながらに誓ったことを覚えています。
何もかもはじめての私はワイフと文字通り二人三脚で娘を育ててきました。何度も「父親失格」のレッテルを自分に貼りました。でも、この人生の真実は、根源的なレベルでは失敗はないのだということ。人生の中で起きることはすべて、その一人の人間がその志を発見し、最大限に志を発展させるために起きているのだということ。
「すべては道に通じるのであり、道をふさぐものではない(Everything is on the way, not in the way)」(Drディマティーニ)
ということを知ってからは、少しだけ心に余裕がうまれ、ありのままの自分として娘と向き合うことができるようになったと思っています。以前の私であれば、娘に「鯛」を買ってやれないと思い悩んだかもしれませんが、でも、様々な形で「鯛」が存在するということを知ってから、私は色々なものを買わない自分を責めることがなくなりました。
子育ては、子どもに何をしてもしなくても、愛であると思います。
さあ、あなたも鯛を買う代わりに、別の形で人生の「鯛」を楽しんで見ませんか?(注:もちろん鯛を買いたい方はどんどん買ってください)。
今回も読んでくださって、ありがとうございました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて。
野中恒宏
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