はじめに
最近、「パワハラ」と呼ばれる現象に苦しんでいらっしゃる方がかなりおられるようです。会社の上司という立場を背景にしたパワーを使った「いやがらせ」といわれている現象です。
あなたも会社でそのような体験をしたことがありますか? しかし、そんな現象でもあなたの人生にとってとても重要な意味をもつ一つの経験であるということをご存知でしょうか? 今回は、私自身の職場での「パワハラ」体験をもご紹介しながら、いかに向き合うべきかという考察をしてみたいと思います。
「パワハラ」の恩恵は何か?
もし、あなたが何らかの形で、上司から「パワハラ」を受けていると感じているのでしたら、まずは、そのおかげでもたらされているメリットを探してみてください。どんなにネガティブに見える「いやがらせ」であっても、宇宙で起きることすべてには必ずプラスとマイナスの両面があります。それはミクロからマクロのレベルまで変わりませんので、「パワハラ」も例外ではありません。
その場合は、具体的にいつどこで何をされたか(されなかったか)を絞り込んでください。そして、そのことで、どのようなメリットがあったかを発見してみるのです。メリットをつくりあげるのではなく、発見してください。必ずそこにあるのですから。
メリットが見つけにくかったら、そのことによってもたらされて、精神的メリット、知的活動におけるメリット、仕事におけるメリット、お金についてのメリット、家族や愛する人にとってのメリット、健康面におけるメリット、社交におけるメリットなどを見つけてみてください。いくつかの領域に同時にまたがったメリットもあるかもしれません。
また、その「パワハラ」によって、(1)何を守ることができたか、何を変えないですんだか、(2)何を変えることができたか、どんな新しいことがはじまったか、(3)どのように自己重要感を深めることができかたか、(4)どんなつながりができたか、どのようにつながりを深めることができたか、(5)どのように成長することができたか、(6)どのように誰に貢献することができたか、などを考えてみるのもメリットを発見する際に役立つかもしれません。
また、自分の人生の最優先事項やミッションにとって、どのようなメリットがもたらされたかを明確にするのも効果的でしょう。
まず、私の例をご紹介します。私は、オーストラリアのブリスベンの小学校で日本語教師をしていますが、ちょっと昔、苦手な上司(校長)がいました。
怒鳴られたり、嘲笑されたり、無下に反対されたり、「重箱の隅をつつくように」細かいところまで指図されたことがありました。つまり、いろいろな「ネガティブだ」と思われる体験をしました。できれば顔を合わせたくないと思ったほどでした。
しかし、その後、そうした「ネガティブだ」と思われることであっても、ポジティブな内容が含まれているなと徐々に気がついていきました。
たとえば、
怒鳴られたおかげで教育省や校長の方針が痛いほど理解できたし、
怒鳴られたおかげで、摩擦を生じさせないためのコミュニケーションのやり方も学べたし
怒鳴られたおかげで、自分の中のエネルギーレベルが上がり、
嘲笑されたことで、自分の中にある「弱点」に気づき、それを改善することに結びついたり、
無下に反対されたことで、その反対を突き崩すために、様々な角度から理論武装をしたり、他の方々のサポートをもらったり、
重箱の隅をつつくように指図されたおかげで、今後もプロとして教えていく立場として、かけがえのない相手に伝えるスキルを向上させることができたことに気がついたのです。
つまり、どれもこれも私の最優先事項である「教えること」を向させる上では欠かせない必要なアドバイスばかりだったのです。これほど徹底的に妥協しないで毎回厳しく接してくれたおかげで私は成長するしかなくなったのです。これほどパワフルな「成長促進剤」はないと思いました。
私はそこに愛を感じました。もちろん、校長は「愛」という言葉で自分の言動を理解してはいないと思います。でも、私にとっては、どれもこれも教師生活を続けていく上で欠かせないアドバイスが含まれていて、また、そのための時間を超多忙な中、私のために必ず厳しく対応してくれたのです。
視野を広げて総合的に「パワハラ上司」を見つめなおしてみる
自分が「パワハラ」を受けていると思っている間は、その人と自分のことしか見えない傾向にありますが、ちょっと視点を引いて、もう少し大きな視野でその人のことを見てみると、意外なことに氣がつくことがあります。特にその上司があなたにしたこと(しなかったこと)の正反対の行為をしていることを発見してみてください。そのことがあなたの心を救ってくれるかもしれません。
私も意外なことに気がつきました。
視野を拡大してもう一度関係を見てみると、私の日本修学旅行の会議のときに、家に帰らず遅くまで会議につきあってくれましたし、ときどき、私の教室にやってきて態度の悪い生徒に注意をしてくれましたし、どんなに遠くでも私を見かけると必ず手をふったり、笑顔で挨拶をしてくれました。
自分が「パワハラ行為」だと思っていることに心を悩ませていたときには、校長の別の側面など全く気がつきませんでしたが、あらためて、「校長はどのような形で私に正反対の行動を示したのか?」と問いかけることで、色々と見えてきたのです。質問の力はあなどれません。脳が自動的に答えを見つけるようになるからです。
そして、私はまっすぐハートから校長のことを見つめなしてみたとき、次のことにも気がついたのです。
彼女は生徒たちに怒鳴るような対応をする一方で、まるで自分の家族のように、生徒の身を案じたり、成長のために様々な学習の機会を生徒たちに与えていました。
また、校長は誰に対しても詳細に渡って厳しい態度(時には怒鳴ることも含む)をとっていました。相手が生徒だろうが、先生だろうが、保護者だろうが、教育委員会であろうが、彼女の態度は一貫していました。
つまり、彼女の厳しさと優しさは実は同じところから出ていたことに気がついたのです。
それは子どもたちの安全と成長を求める愛でした。そのために彼女は絶対に妥協はしませんでした。
彼女は教師として、子どもたちの安全と成長を確かなものにするために、相手がどんな立場の人であっても、真剣に向き合っていただけだったのです。
そのことから、どんな人もその人なりのユニークな愛情表現方法があるのだということを学びました。どんな人も実は愛を表現しているだけなのだと。
でも、それが「幻想」で曇らされていると、「パワハラ」や「いやがらせ」にしか見えないということを。
「パワハラ行為」の原因に目を向けてみる
地球上のどんな人間の行動にも必ず原因や理由があります。
いいかえれば、全くメリットのないことは絶対に人間はやりません。「パワハラと見える行為」、すなわち、強烈な子どもへやコミュニティーの人間に対する愛情表現にも必ず理由があるはずであると考えました。
そして、あることに気がつきました。それは、彼女が結婚していないという事実です。言い換えると、彼女は別の形で「家庭」を体験しているのだということに気がついたのです。彼女は職場の人間や子どもたちに対して、まるで家族のように接していたのです。
彼女は、親が子どもを叱るように生徒を叱り、親が子どもを抱きしめるように生徒に優しく接し、親がパートナーに接するように、職場の全ての人に対して対等にコミュニケーションをしていました。
彼女は何も失っていませんでした。彼女は学校の中に「家族」がいたのです。彼女の強烈な愛情表現の原因は、彼女の「家族」に対する「欠乏(void)」をうめるための行為だったのです。
人間の行動原理の一つは、何か「欠乏(void)」しているものを埋めたいというものです。それは裏を返すと、そこに「価値(value)」を見出しているからこそ、それを満たそうとするのです。この校長は、仕事一筋で生きてきたように見えますが、その内実では、自分の「家族」を求めていたのかもしれないと思うにいたりました。
私も、父が亡くなった当時、父の面影を追い求めた時期もありましたし、日本の生徒たちと別れて、オーストラリアにはじめてきたときは、自分の生徒を捜し求めた時期もあったので、この校長の気持ちは痛いほどわかりました。私と校長の体験したことは形は違いますが、その本質では同じことだったのではないかと思います。私はここに校長とのシンクロを感じたのでした。
「パワハラ」を許す必要はない
「おいおい、何かパワハラがまるでいいことのように話が展開してるんじゃないのかい? やっぱり、俺の上司がやったことは許せないよ」
という方もいらっしゃるでしょう。
私は「パワハラを許せ」といっているのではありません。そして、「パワハラを許すな」といっているのでもありません。
「えっ? どういうこと?」
そもそも「許す」とは、自分が正しくて、相手がまちがっているという前提があります。また、「許せない」といった場合も、自分が正しくて相手が間違っているという前提があります。しかし、宇宙の法則の観点からいえば、この宇宙のすべての出来事には必ずポジティブな側面とネガティブな側面が同じだけあり、どちらだけが正しくて、どちらだけが間違っているということはありえないのです。日常感覚ではなかなか理解しにくいことかもしれませんが、さきほどもふれたように、人生のバランスの観点からいえば、「パワハラ」と呼ばれる行為によって、何かを守れたり、何か新しいことをはじめたり、自己重要感が高まったり、人とのつながりが深まったり、成長できたり、何かに貢献できたり、自分のミッションをより明確化したりする側面もあるので、「パワハラ」が絶対に間違っているというのは一面的な見方なのです。一方で、「パワハラ」によって、もたらされたネガティブな側面もあるので、「パワハラ」が絶対に正しいともいえないのです。
「じゃあ、パワハラをそのままにしておけっていうのか?」
という声も聞こえてきそうですが、それはあなたが決めることです。パワハラに腹を立てたり落ち込んだりしているときというのは、感情が自分の心を曇らせているので、なかなか冷静に建設的な判断ができにくいものです。そういうときに、何か争いごとをはじめたり、逆に我慢したりしても、何もはじまらないでしょう。
だとするならば、自分が体験している「パワハラ」と呼ばれる現象を、今回見てきたように様々な観点から見てから行動を決めても遅くはないのではないでしょうか?
「パワハラ」と呼ばれる現象がもたらしている真の姿を発見し、冷静になった上で、今の会社でがんばり続けることが自分の人生にとって大切であるという結論になれば続ければいいでしょうし、今の会社をやめることが結論になればそうすればいいでしょうし、裁判を起こすことが自分にとってとても意義のあることであるという結論に到達すればそうすればいいでしょうし、また、上司と新しい関係を構築することが結論になればそうすればいいでしょう。
いずれにしろ、物事の両側面を見る以前に出した結論というのは、往々にして後で後悔するものです。まずは、自分が体験している「パワハラ」の真の意味を理解し、その上で、自分にとってもっとも賢明であると判断した方向に進むことが大切なのではないでしょうか?
「すべては道にむすびつくのであり、道をふさぐことはない(Everything is on the way, not in the way)」(Drディマティーニ)
この言葉を思い出すとき、私たちが人生で体験していることは、ポジティブであると思えることも、ネガティブであると思えることも、全てが自分が自分の価値を最大限に生きるためにおきているということを考えれば、自分にとって何が賢明な結論かがわかってくると思います。
今、「パワハラ」と呼ばれる現象に苦しんでいるあなた、それはあなたの人生にとってかけがえのない意味をもっています。どうぞ、それを発見された上で、行動を決めてください。
おわりに
今回の記事でご紹介しました校長が退職することになりました。
別件で彼女と話していたときに、「センセイにこのこと話す機会がなかったけど、実は」という出だしで、今年で退職し、来年からゆっくり休養をとりたいといってきました。体調を崩すくらい妥協しないで全力投球してきた一人の人間の姿がそこにはありました。
と、そのとき私は信じられないものを観たのです。
彼女の眼に涙が浮かんでいたのです。
私もコンマ一秒でもらい涙目になりました。
私はその瞬間に、彼女の中にある純粋でピュアな大きな愛があることを感じました。
言葉にすると、冒頭からの長い記述になるわけですが、真理を心が理解するのには時間は必要ありませんでした。
「ありがとうございました。先生のおかげで私は教師として人間として成長することができました」
校長の輪郭が涙でぼやけて見えました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて
野中恒宏
(注:写真はイメージであり、実際の人物の写真ではありません)