はじめに
日本であっても、オーストラリアであっても、世界中どこにも、いわゆる「変な人」といわれる人は存在します。何を隠そう、私もかなり「変な人」と呼ばれたことがあります(今でも?笑)。
テレビを見ても、かなり「変な人」扱いされる人が毎日のように画面に登場しています。
でも、そもそも「変な人」って何なのでしょう?
私たち現代人の中には、相手を見て自分とかなり違うと思う人について、特にネガティブな文脈でかなり自分と違うと思う人について、自分の価値観のフィルターを通して心の中に線を引き、その人を「変な人」というレッテルをはって、その人を無視したり、関わらないようにする人がいます。
「変な人」の具体例としては、
- 「きもい(=気持ちが悪い)」
- 「不潔」
- 「うざい(=うざったい)」
- 「やらしい」
- 「怖い」
- 「しつこい」
- 「迷惑」
- 「中毒」
などでしょうか?
では、なぜ私たちのまわりに必ず一人はなぜ「変な人」と呼ばれる人がいるのでしょうか? 今回は、私たちがうすうす気がついていても、なかなか深くその意味を考えないテーマについて考察してみようと思います。きっと、「変な人」の真の存在意義が見えてきて、彼ら彼女らに感謝ができるようになるかもしれません。
こわいけど「変な人」を見てみたい?!
一般的に、「変な人」に対してどういう態度をとるか、と聞くと、できるだけかかわらないようにする、という答えが一番多く返ってくるかもしれません。
おそらくその第一の理由は「身の安全」を守ることでしょうか? 下手に関わって、自分の日常生活に影響が及び、変わってしまうことを恐れるからでしょうか?
しかし、私たちはそうした「変な人」と本当に関わりたくないのでしょうか?
たとえば、テレビを基準にはできませんが、テレビには相当「変わった人」たちが毎日のように出ており、かなりの視聴率をかせいでいるようです。
昨年日本に帰国したときに見たテレビのバラエティー番組では、シャワー中に抜けた髪の毛を拾い集めて壁に投げつけて、その偶然できた形を楽しむ芸能人が紹介されていました。会場からはかなり「気持ち悪い」という声があがっていました。
しかし、そうはいってもそういった「変人」を扱う番組を見てしまうのは、実は、私たち現代人の中には怖いもの見たさというか、「変なもの見たさ」という心理もどこかにあるのではないかと思うのです。
たとえば、
原宿に出没するアニメのキャラクターのコスプレをする人たちを見に行ったり、ハロウィーンの時には、かなり奇抜な格好をしたり(マスメディアもそれを広く取り上げたり)、シドニーで毎年開催される「パレード」には、世界中から自分の身体的性とは逆の性を生きたい男女が多数参加し、大勢の観光客を引き寄せていますし、私たちの心理のどこかに何か「変なもの」「変な人」を見てみたいというニーズがあるのではないかと思うのです。
アンソニー・ロビンスによれば、私たちに人間には共通して6つのニーズがあるといっています。
それは、
- 確かさ(certainty)
- 不確かさ(uncertainty)
- 自己重要感(self significance)
- 愛・つながり(love & connection)
- 成長(growth)
- 貢献(contribution)
です。
(注:アンソニーロビンズのいう「愛」とDrディマティーニのいう愛の意味合いはまったく違いますが、それについては機会をあらためて論じてみることにします)
私は、そもそも私たちが「変なもの」「変な人」を見たい、というのは二番目のニーズを満たしたいという気持ちがその牽引力になっているのではないかと思うのです。
すなわち、私たちは日常生活を変えたくない、そのままがいいというニーズ(確かさのニーズ)をもっている一方で、それだけには飽き足らず、その逆の日常生活を変えたいという一見相矛盾したニーズ(不確かさのニーズ)をもっています。
これはニーズですので、消すことは不可能です。私はこの何か新しいものを求めるニーズがある限り、「変な人」を見たい、近づきたいということはなくならないのではないかと思っています。
つまり、いわゆる「変な人」の第一の存在意義は、私たちの新しいものを求めるニーズを満たしてくれるというところにあるのでしょう。
実は、みんな「変な人」?!
また、私たちの中には、いわゆる自分から見て「変な人」に対して、「自分は変ではない」「自分はまともである」という思いをもっているのではないでしょうか。いいかえれば、そういうふうに思うことで、自分のアイデンティティを保てると思っている人がいるのではないでしょうか。
しかし、私たちは自分が「変」ではないと心から断言できるでしょうか?
結論から申し上げれば、私はこの地球上に存在する数十億人の人は誰一人例外なく「変」であると確信しています。
私たち一人ひとりには4600以上の全人類の特徴が何らかの形で備わっています。
具体的には、
「きもい(=気持ちが悪い)」
「不潔」
「うざい(=うざったい)」
「やらしい」
「怖い」
「しつこい」
「迷惑」
などの特徴は誰にでも備わっているのです。
ただ、日常生活の決まった枠組みの中、人間の表面的な認識レベルでは、それらが自分にあるなんてとても信じられないわけです。
でも、視点を変えると、すぐにこうした点は誰にでもあるということがわかります。
たとえば、食事。
昨年、私は日本で、ひさびさに食べた新鮮な刺身は最高でした。
しかし、オーストラリアの多くの子どもたちにとっては、「生魚を食べるなんて気持ち悪い」以外の何者でもなかったりするわけです。
また、日本では当たり前の洗浄型トイレですが、その話をすると、多くのオーストラリア人は、顔を赤くして大笑いします。「そんな変なトイレが存在するなんて信じられない」「ノナカ先生はそんな変なことをするのか」みたいに言われたこともあります。
その意味で、私は「変な人」になるわけです。
このように視点をかえると、普通だと思っていたものが、途端に「変」に変わってしまうこともあるわけです。上記の例は日本とオーストラリアの例ですが、これは異なった価値観からみれば、同じものでも異なって見えるという典型的な例です。
目の前に存在する人やものは単にニュートラルです。良くも悪くも、普通でも変でもありません。なぜなら先ほども指摘したように、私たちの中にはすべての特徴が存在しているからです。
それを自分の価値観を通すと、よくなったり悪くなったり、普通になったり「変」になったりするわけです。
☆
こうしてみると、なぜ私たちの周囲に「変な人」が存在するのか、という理由が見えてくるような気がします。
そもそも私たちは一人ひとりユニークな存在です。それは単に顔が違うとか性格が違うとかいう表層的なレベルでいっているのではありません。私たちは一人ひとり指紋のようにユニークな価値観をもっているのです。いいかえれば、人によって異なった優先順位をもって生きているわけです。そして、その優先事項の高い項目というのは、必ずしも一般社会で広く受け入れられているものと一致するとは限りません。いや、むしろ、自分が真に100パーセントの純度で自分の最優先事項を生きようとするとき、世間の常識や通念と異なった生き方になるということは必然なのではないでしょうか?
しかし、私たちは日々途切れなく強烈に、家庭、学校、マスメディアなど様々な場でいわゆる「社会理想主義」を埋め込まれています。いいかえると、ある一定の枠組みの中で生きるように、様々な「べき」「べきじゃない」「しなければならない」「してはいけない」を刷り込まれています。そうすると、私たちは自分の中にある真の優先順位が曇って見えなくなります。いつの間にか、社会一般で認められる価値観の中で生きようとしてしまいます。それが当たり前になり、何も疑問をもたなくなります。
そんなときです。私たちの目の前に「変な人」が現れるのです。
宇宙はバランスを例外なくもたらすので、私たちが日常生活を変えたくないとかたくなに思っていればいるほど、あるいは、社会理想主義の中にどっぷりつかればつかるほど、こうした人たちに対して過剰に「変」というレッテルを貼って反応することが増えていくのではないかと思うのです。
もし、それが本当に嫌なら、もし、本当に真の純度で自分の優先順位の中生きたいのであれば、もっと自分が望む方法で、自分で責任がとれる範囲で、あなたも自分の生活の中に「変」を取り入れてはいかがでしょう。
先ほども述べたように、もともと、私たちは指紋のようにユニークなミッションや価値のヒエラルキーをもっています。自分が自分らしく真に生きるとき、その生き方はユニークであり、他の人からみると「変」ということになると思いますが、それは他の人からみた感想であって、本人にしてみれば、変どころか、ごく当たり前の感覚なのです。しかし、生きる充実感は格段にそうでない人と比べると違うと思います。
以上をふまえると、「変な人」が存在する第二の理由は、私たちが自分の最優先事項やミッションを自覚的に生きていない場合、人から見て「変」と思われるくらいに、私たちに真に自分の最優先事項を生きることの大切さを教えてくれているのではないかと思うのです。
「変な人」は私たちに自由をもってきてくれる
また、第三に、なぜ「変な人」が存在するのかということですが、それは先ほども見たように自分の中に存在する「変」を発見し、自由になるきっかけをくれているのではないかと思うのです。
もともと自分の中に「変なところ」があるのに、人の目を気にしてそれを抑圧し続けるというのはかなりしんどいことです。場合によっては心を折れやすくするきっかけになるかもしれません。
だとするならば、まずは自分の中にどんな形で「変」が存在しているのか? それをどのように表現すればいいのかを考えただけでもかなり救われるのではないでしょうか?
現在、NHKでは幕末を描いた「花燃ゆ」というドラマが放映されているようですね。確か、吉田松陰の妹の文が主人公のストーリーだったではないでしょうか? 吉田松陰は様々な言葉を後世に残していますが、その中でも私にとって特に強いインパクトを持つ言葉は、
「諸君、狂いたまえ!」(吉田松陰)
ではないかと思います。私は、これは「世間の風潮や現状にいたずらに迎合するのではなく、自分の志に基づいて自由に生きろ!」という意味ではないかと思うのです。
ご存知のように、幕末というのはペリーの黒船の来航をきっかけにして、日本国中が開国か攘夷か、幕府か新政府か、などで大混乱に陥っていました。つまり、それまでの古い枠組みの中の生き方では何も見えてこない時代だったといえると思います。そんな中、それまでどおりの生き方にしがみつくことは人間としての停滞だけではなく、日本国の存亡に関わるという危機感が広がっていたのでしょう。そんな中、既存の枠組みからはずれた思考と行動をすること、すなわち「狂うこと」はむしろごく自然なことだったのではないでしょうか。
私たちの生きる現代はどうでしょう?
江戸幕府は存在しませんし、坂本竜馬も西郷隆盛もいません。でも、経済、政治、宗教、科学、社会、教育、など様々なレベルで、既存の枠組みが当てはまらなくなっている現状を考えた場合、形は違いますが、世界は「新たな幕末」を迎えているといえるのではないでしょうか? そんなときに、既存の枠組みにしがみついているのは、何も生み出さないでしょうし、人生の充実度もあがらないでしょう。さきほども触れたように、私たちは既存の枠から出てみたいというニーズをもっています。それに自分の志やミッションを結びつけることで、いいかえれば、「変」になることで、時代を切り開いていくことが求められているのではないでしょうか。
このように見てくると、私たちの周辺に存在する「変な人」たちというのは、私たちのニーズを満たすだけではなく、私たちが私たちらしくユニークなミッションを自由に展開させることを促しているともいえるのではないでしょうか?
おわりに
いかがですか? ここまで読まれると、「私にはそんな自分勝手な生き方はできない」「そんなわがままは許されない」という感想をお持ちになった方もいらっしゃるのではないでしょうか?
もし、それがハートから出てくる本心であれば、どうぞ自分勝手やわがままをおさえて、社会に順応する生き方を進んでいかれてかまわないと思います。しかし、それが本心から出てきた言葉ではなく、ハートの声は「人がなんと言おうと、私は自分のミッションを生きたい」といっているのであれば、ちょっと「わがまま」になってみてもいいのではないかと思うのです。
私たちが真に「わがまま」を生き切ると、それは自分という存在をつきぬけて、社会や世界へ広がって私たちの人生をより大きな規模で豊かにしていくことにつながるのではないでしょうか? はじめから、「人のために」がんばろうと思う人も大勢いると思いますが、仮にそれが「わがまま」な思いから出発しても、それが結果的に社会に奉祀することになることも結構あるのではないでしょうか? エジソンしかり、マザーテレサしかり、スティーブジョブズしかり、カーネルサンダースしかり、ウォルトディズニーしかり。
今日も読んでくださって、ありがとうございました。
どうぞ「変な」一日をお送りください。
オーストラリアより愛と感謝をこめて。
野中恒宏