はじめに
先日、海に行ってきました。水が冷たかったので、私は海の中には入らなかったのですが、娘と娘の友達は大きな波に果敢に挑んでいきました。「成長したなあ。昔はプールの水に浸かるだけでも大泣きしていたのに、今はあんな大きな波を楽しんでるし」、そう思っていた矢先、娘たちの姿が見えなくなってしまいました。
ひょっとして、波にさらわれたのかとヒヤッとしましたが、二人の頭がひょこっと海面に現れて、大きな二つの笑顔が私の目に飛び込んできました。
ほっとしましたが、あまり遠くにいってはやはり危ないと思い、私は大きな声を張り上げて、もっと近くに戻ってくるように言いましたが、大自然の大海原の中では私の声などはあっという間にかきけされてしまいました。そこで、私ができたことといえば、手と腕を思いっきり使って、娘たちにサインを送ってこっちに戻って来いというメッセージを送ることぐらいでした。
日ごろ、日本語を教える人間として言葉にばかり集中しがちなわけですが、このとき、あらためて、手を使ったコミュニケーションの重要性を再認識したわけです。そこで、今回は、私なりに手とコミュニケーションについて考察してみたいと思います。日ごろ、人と話すときに手のことを意識している人はあまりいらっしゃらないかもしれませんが、手について深めると、あなたの話を相手に伝えることの本質が見えてきます。
手とコミュニケーション
手を司る脳と言葉を司る脳はわりと近い関係にあるようです。
私たちが何かをしゃべるときには大抵何らかの形で手を使っていますし、まだ言葉が未発達な赤ちゃんでも懸命に手を使って何かを伝えようとしますし、手をしばられた状態ではなかなかしゃべりにくいということから考えても、手と言葉は近い関係にあることは容易に想像できます。
つまり、手はコミュニケーションにとって重要な役割を果たすことはまちがいないようです。
人間のコミュニケーションの歴史をさかのぼると、はるか太古の原始時代にいたるわけですが、その当時、今ほど言葉は発展していたとはいえないでしょう。会話は毎日の狩猟生活を成立させるための必要最小限の原始的な言葉から成り立っていたことは容易に想像がつきます。
そんな中、コミュニケーションが次の段階に飛躍したきっかけの一つは「手の発見」だったと思います。様々な研究者の指摘では、人間が指を使って対象物を指差すことで、より具体的かつ効果的に自分の伝えたいことを相手に示せるようになったそうです。
そして、その手は狩猟以外の道具ももつようになります。アフリカの洞窟で見つかった様々な壁画は紛れもない新たなコミュニケーションの段階を示しています。
それまでのコミュニケーションはその場だけのコミュニケーションでしたが、手を使って描くということで、その場という時間の制約を越えて、次世代、そしてさらに未来へ自分の意思や感情を伝えることが可能になりました。
そして、そうした手の発展とともに言葉も発展していったのです。
私は言語を教える教師として、あらためて手と言葉の連携の大切さを再確認しました。ひいては、言語と非言語(表情やボディーランゲージなど)の相互関係の大切さも再認識しました。
本当に伝えたい「想い」とは?
頻繁にコミュニケーションはしてるけど。。。
昨今はパソコン、インターネット、スマートフォンなどの発展により、人々のコミュニケーションの頻度や規模は飛躍的に向上したといわれています。しかし、本当に自分の伝えたいことを相手に伝えているといえるでしょうか?
便利な道具に隠れて、本当に自分のいいたいこと、相手のいいたいことが見えなくなっている側面はないでしょうか? 日々、ソーシャルメディアなどで展開されている会話などには、ある一定の社会的な価値観が反映されているように見受けられます。そこでは、無数の「しちゃいけない」「しなければならない」があふれています。自分の本心がそこになくても、孤立したりするのがいやだったり、「いいね」を押してもらいたいがために、自分の本当の「想い」を脇において、その他大勢にあわせている人って結構いるのではないでしょうか。
それは、パソコンなどの道具を使わない面と向かったコミュニケーションでも同じでしょう。他人の目、常識、世間体、社会通念、など様々な「社会的理想主義」ともいうべき有形無形のプレッシャーの中、私たちは自分の本当の「想い」が見えにくい、あるいは表現しにくい現代社会を生きているといえるのかもしれません。
しかし、だからといって、言葉を使うときに何が何でも手を使えば、自分の本当の「想い」が口から出てくるということもないでしょう。やはり、自分の真の「想い」を明確に発見することができてこそ、はじめて手の表現が生きてくるのではないでしょうか。
ところで、昨今の自己啓発系の流れの中でもコミュニケーションの大切さが強調されています。中には、自分のなりたい誰かの体の動きを真似することを推奨するモデリングを強調する方もいらっしゃるようです。しかし、単にモデリングした動作をすれば、私たちは本当に充実したコミュニケーションをとることができるのでしょうか?
以前、日本でかなり自己啓発界で「成功」している方が、あきらかに海外の有名人のモデリングをしてしゃべっている姿を見たことがあります。私はその方の話の内容よりも、その手の不自然さ
のほうが記憶に残っています。
ドイツのトレバー・ドッツ教授の実験によると、全く手を使わないコミュニケーションでは、相手の理解力が著しく低くなったことが記されていますが、一方で、人工的な手の動きも相手の理解力を妨げたという研究結果が発表されています。
自分の本当の「想い」に合った自然な手の動きこそが相手の理解を助けるのです。誰かの物まねではない、自分のハートから出てくるメッセージをそのまま言葉と手と体で表現してみませんか?
自分の本当の「想い」の正体
そもそも本当の「想い」とは何か? 最近読んだ出口光氏の『人の心を動かす伝え方:響く言葉には「魂」がある』(あさ出版)によると、私たちの言葉は大きくわけて、コロコロ変わる心から出てくる理性や感情の言葉、そして、不動の魂から出てくる「想い」のこめられた言葉の二種類があるようです。
私たちの心は、相手によって、状況によって、そのときの気持ちによって、すなわち、様々な内外の要件によって文字通りコロコロ変わったりします。そういうところから発せられる言葉は相手の深いところには伝わらないわけですが、一方で、何が起きようと不動で一環した魂から発せられた言葉には真の「想い」がこめられているので、相手の魂に響きやすいというわけです。
魂から発せられるあなたの真の「想い」は何ですか?
私もその真の「想い」は魂から出てくるものだと思いますが、その魂の正体は何でしょうか? 私は別にここで宗教的な論議をするつもりはありませんが、私の理解では、魂の本質は愛ではないかと思うのです。
魂は英語でSOULというわけですが、これは、State Of Undoncidtional Love、すなわち「無条件の愛の状態」の略語であるという話を確かDrディマティーニから聞いたことがあります。日常生活を送っていると、一部の例外を除いて、私たちの多くはこうした状態を体験することは難しいのですが、しかし、自分が好きな人だけではなく、嫌いな相手であっても、許せない相手であっても、真にありのままの姿を発見できたとき、私たちは文字通り無条件の愛を体験することができます。
この状態のとき、私たちの手や腕はどのように動くかご存知ですか?
私自身、この状態を何度も体験し、また、この状態を体験された方を多く拝見してまいりましたが、両手を合わせたり、ハグをしたり、何らかの形の「つながり」やワンネスを表現することが多いように思います。
その状態というのは、自他の区別も、過去や未来も、罪悪感も不安も、あらゆる境界線がなくなり、文字通り、一つになったような感覚で、そのときにできるのは、感謝と涙だけというような状態です。
こう考えると、私たちの魂の愛が、一人ひとりの固有な存在のフィルターを通して表現されたものが「真の想い」であり、「ミッション」であり、「志」なのではないかと思います。そこでの手の表現というのは、何らかの形で愛を表現しているといえるのかもしれません。
おわりに
手というのは、実は「第二の脳」といわれるくらい、私たちの想いと直結した部位です。たとえば、さきほど述べた合掌やハグというものでなくても、何らかの手の仕草で「想い」を相手に発しているような動作をすることってないでしょうか?
以前、合氣道で、指の先から氣が出ているということを教わったことがあります。合氣道では、氣は宇宙を構成する根本のエネルギーであり、心も体も究極は一つの氣です。合氣道の目的は、実も心も宇宙の「氣」と「合一」することにあるといえます。その状態を体験すると、大人が何人がかりでその人を押しても、文字通り不動の状態になるということも何度も稽古で目撃しました。手の先からまっすぐ宇宙に向けて氣が発せられる状態になると、大人が上から思いっきり押しても腕は動きませんし、曲がりもしません。そのように考えても、私たちの手は私たちを宇宙と一つにさせるエネルギーを発っしている大切な部位といえるのかもしれません。
さあ、あなたも魂から発せられている愛をあなたなりの形で思いっきり手や体を使って表現してみませんか? それがあなたの話を相手に伝える最も大切な方法ではないでしょうか。
今回も読んでくださって、ありがとうございました。
オーストラリアより愛と感謝をこめて。
野中恒宏